ノエミ・グダル:物語不在のフィクション

Author中西園子 / Sonoko Nakanishi
Category Art


ノエミ・グダル、《Cascade》、Cプリント、2009年 © Noémie Goudal / courtesy of Edel Assanti


ここに、《Cascade》(滝)と題された写真作品がある。フランスのアーティスト、ノエミ・グダルによる2009年の作品だ。冬の枯れた森のなかに設置された巨大な薄布。画面上部を横切る2本のワイヤに掛けられた白く透き通る布は、大地の割れ目を通って、画面の手前に集まっている。布が輝いて見えるのは、柔らかな日の光が当たる時間を選んで撮影されているからだろう。乾燥した木々の刺々しさと対比させられることで、デリケートな薄布は、本物の滝のもつ瑞々しさや清々しさを表現するのに十分な素材となる。そのアイデアはとてもシンプルだが、その効果ははっとするものだ。

《Cascade》に見られるように、ノエミ・グダルは、2010年頃から「ステージド・フォトグラフィ(演出された写真)」の手法で制作した作品を発表している。そしてまもなく、その演出方法は、写真内写真を用いるものへと発展していく。2012年頃からは、ある場所で撮影された写真をプリントしたものを別の場所へと持ち込み、さらに写真に収めることによって、フィクショナルな空間のイメージを作り出すという手法を一貫して用いている。

ノエミ・グダル、《Jetée》、ライトジェット・プリント、2010年 © Noémie Goudal / courtesy of Edel Assanti



2010年の作品《Jetée》 (桟橋)。写真の中央には、水辺に設けられた古びた桟橋の裏側と水面が見える。そしてまもなく、この作品を見る人は、それがある廃墟の一室の中に設置された写真内写真であることに気づく。しかし、この二つの空間は、人工的につなぎ合わされていながら、とても自然に連続して見える。注意深く観察すると、この連続性は、さまざまな工夫によって演出されたものであることがわかる。濡れた床は水辺に隣接することを暗示し、カメラの視点は、天井の梁と桟橋の梁との消失点が大きくずれないよう注意深く選ばれている。画面右手前の柱さえ、まるで桟橋の構造の一部に見えてくる。また、この部屋に左側後方から当たる自然光は、桟橋の左側から差し込み、水面に当たって橋の裏側の構造を浮かび上がらせる自然光と違和感なく溶け合う。このようにして入念に作り込まれたイメージの中で、この打ち捨てられた一室には水辺の湿度が充満し、閉じた壁は桟橋の向こうの未知の世界へと開かれていく。

ここでグダルは、完璧なイリュージョン(錯覚)を作り出そうとしているわけではない。桟橋のイメージが敢えてたくさんの紙に分けて出力され、そのつなぎ目が目立つ状態に放置されているように、作家がここで目指しているのは、二つの空間の継ぎ目を限りなく消し去って、廃墟と桟橋が接続されたこのような空間があたかも実在するかのように見せることではなくて、そのような空間をあくまでフィクション(虚構)として提示することだ。クリフ・ローソンをはじめ多くの論者が指摘するように(註1)、グダルの写真は、イメージの真実性を問うものというよりも、見る人にイメージの真実性と虚構性のあいだを行きつ戻りつするように誘うものなのだ。

グダルが撮影現場に持ち込む写真は、《Jetée》のように何枚もの紙に印刷されていたり、支持体の露出した木製パネルに貼り付けられたりする。作家が「backdrop」(背景)と呼ぶように、これらは演劇の舞台で使われるそれを思わせる。劇場監督の母を持つグダルは、若い頃から演劇に親しんできたという。しかし、彼女の舞台に役者はいない。そしてそこでは、具体的な物語が暗示されることもない。彼女の関心は、物語そのものよりも物語の器としての空間にある。

ノエミ・グダル、《In Search of the First Line III》、Cプリント、2014年 © Noémie Goudal / courtesy of Edel Assanti



〈In Search of the First Line〉(最初の線を探して)(2014)は、そんな物語の不在が際立つシリーズだ。ここでは、古い教会建築の断片をつなぎあわせた架空の建築物のイメージが、20世紀初頭に工場として設計された建物の中に持ち込まれている。グダルが、当時前景、中景、背景を使って異なる空間と時間を作り出すことに興味を持っていたと言うように(註2)、それぞれ、時空の全く異なるコンテクストが、建築物の断片を通して、一枚の写真作品の中に共存している。あたかも、これらの時空が行き来できるものであるかのように。しかし、それらのコンテクストが互いに接続することによって生まれる新しい物語や意味は欠けたままだ。

むしろ、グダルの作品は、いかなる物語からも自由な場所を作り出すことを目指しているかのようだ。ある論者は、グダルの空間を、フーコーの「ヘテロトピア」の概念に重ねている(註3)。ヘテロトピアとは、実在しないユートピアを何らかのかたちで体現する実在の空間。しかし、フーコーが、あくまで社会の中に存在する空間として生きられているものをイメージしていたのに対して、グダルの空間にはそれを満たす具体的な生や人間の活動が欠けていて、どこまでも抽象的だ(註4)。そのイメージの魅力は、この謎めいた空間に答えを探すことなく、ただ視線を彷徨わせることにある。グダルの写真が見る者を惹きつけるのは、私たちの側が、ここではないどこかという意味でのフィクションを求めつつも、本当は一つの物語など必要としていないからではないだろうか。あるいは、この世界のオルタナティヴは無限であってほしいという密かな欲求がそこに反映されているのかもしれない。グダルの作品は、そうした欲求を掻き立て、そして受け止める器のようにそこに存在している。



 註1:Dr. Cliff Lauson, “The View From Here” in Observatories, RVB Books, Paris, 2016. クリフ・ローソンは、ヘイワード・ギャラリー(ロンドン)のキュレーター。

註2:“Fictional Spaces by artist Noémie Goudal” (interview by Betty Wood), THE SPACES, undated. https://thespaces.com/fictional-spaces-artist-noemie-goudal-builds-a-whole-new-world/ (last accessed on 8/5/2021)

註3:Emma Lewis and Sebastien Montabonel, “Suspended Disbelief: The Photography of Noémie Goudal”, 2012. http://noemiegoudal.com/text-by-sebastien-montabonel-and-emma-lewis/ (last accessed on 8/5/2021)

註4:この意味で、グダルのイメージは、ヘテロトピアそのものよりも、フーコーがユートピア(不在)とヘテロトピア(実在)の両方の要素を持つものとして挙げた鏡に近いのではないだろうか。



ノエミ・グダル Noémie Goudal

1984年、フランス生まれ。2008年、セントラル・セント・マーティンズ(ロンドン)でグラフィック・デザインの学士号取得。2010年、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(ロンドン)で写真の修士号取得。現在はパリを拠点に活動。
これまでに、フォーム写真美術館(2015年、アムステルダム)、フォトグラファーズ・ギャラリー(2015年、ロンドン)、フィンランド写真美術館(2018年、ヘルシンキ)等で個展を開催、また国内外で数多くのグループ展に参加している。また、ポンピドゥー・センター(パリ)やフォームをはじめとする多くの公立美術館に作品が収蔵されている。

https://noemiegoudal.com/

Author

中西園子 / Sonoko Nakanishi

1981年生まれ。京都大学文学研究科(美学美術史学)修了。ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにてMFA(キュレーティング)取得。愛知県美術館学芸員を経て、現在ロンドンを拠点にフリーランスのキュレーターとして活動。キュレトリアル・プロジェクトに『ピル&ガリア・コレクティヴ:(不)可視のプロパガンダ』(2019年、ホスピテイル・プロジェクト)、翻訳にイヴ・ミショー『現代アートの危機』(島本浣との共訳/2019年、三元社)がある。